エンターテイメントとエンターテインメントのあいだ

ash20042004-08-23

舞城王太郎煙か土か食い物」を半分くらい読んで、俺がこれを舞城氏の諸作の中でも特に面白いと思う理由がハッキリしつつある。
それは、俺もまたエンターテインメントを愛するエンタメ人間であったということで、
裏に何が書かれて(流れて)いようが表面が面白くなければリアクションが取りづらいタイプということだ。
煙か土か食い物」には、意味ありげだけど実はまったく意味がないという類の叙述は少なく(気にならず)、ほとんどが破天荒な奈津川ファミリーの描写に費やされており、
次は何を見せてくれるのかなー、「大量のエロ本でベッドが波打ってる」と来たか、想像するとすげぇわらけるぞ、
みたいな鑑賞態度で基本的に俺は作品と向き合っていけて、
それで自分の心に含まれている想像力や迫真の暴力(「ゲットワイルド」の回参照)への憧れを刺激されて読んでて単純にいい気持ちになる。
先日保坂和志さんの「この人の閾」を読んでいい気持ちになってそのまま最後まで、って書いたけども、
ジャンル全然違うんだけどこの「いい気持ち」は繋がっているというか。


だから俺は何が言いたいかというと、いわゆるテレビやマンガや何かを観るのと同じ目線でこういう文字媒体=文学とかに接しているということで、
細かいワーディングや言い回しが整っていることと、若干のファンタジー(非現実感)を含む、ただそれだけの文章であっても、
何か意味ありげな、箴言めいた言葉が多量に出てくるというだけの文章であっても、
きっと、たぶん、俺は面白いと思ってしまうのだろうという悲しい現実だ。
俺には本質を見抜く目が現時点で備わっていない、この年になっても無理なら一生無理、ジャバー。


2ちゃんねる舞城王太郎スレで紹介されたURLにミステリ雑誌メフィストからの引用が載っていて、
「王太郎はメフィスト賞が創られる前からの常連投稿者で、どっちかというと困ったちゃんだったが、煙か土か食い物で急に化けた」という記述があって驚いた。
デビュー作以前は困ったちゃん=何つぅか送られても読むの大変だしなぁ、毎回ご苦労なこったなぁ、みたいな扱いをされていたという事実。
それが「煙か土か食い物」で「別人が書いてるんじゃないか」ってくらい進歩したのだという。


ここから先は想像になるが、舞城王太郎とて天然の作家ではなかった、今の時代、意識してなろうとしなければ作家にはなれない。
舞城氏の著作には直接、間接、国内・海外様々な作家の名前が出てくるしその影響が露わであるという指摘がされている。
保坂和志さんだって海外の小説に積極的に触れたと語っている。
小説とは自分の内に蓄積したものでしか書けないものだが、天然で作家になることは非常に困難だと言わざるを得ない。
あんな、ワケ分かんない世界を書いているくせに、実は舞城さんしっかり勉強していたんだな、というお話でした。