私と接するあらゆる人々に対する私の興味・関心

ash20042004-12-04



先日会社の研修旅行に行ってきたのだが、
総勢20名を超える「知らない人」と三日間も一緒にいたせいで自分の胃と脳は極限までキリキリと軋んで剛性不足を露にした。
ジャンバラヤ動物園で割と鍛えられた気でいたのだがそんな気は気でしかなく、大きな鉈が振り下ろされて一刀両断、
タバコを目の前でプカプカされ、新幹線の狭いシートに4時間も押し込められ、すさまじい頭痛が絶えずし、
さらには大学生らしい会話(どこそこに行ったらこうだった=5割、俺の友達にこういうやつがいて=3割、共通の趣味について=2割)がそこここで展開、
はっきりいってお前の身の回りのバカ話はどうでもいいよ、と言いたくなる自分話を繰り広げられた。
ちなみにどうでもいいよ、と言いたくならない自分話とは、その自分話の内容と話の本筋が有機的な連関を持っていると感じられるものや、
得意げな調子を極力排除したもので、相手に対して話しているという意識をどこかに持った自分話のことである。
しかし大学生のみんなは自分がどれだけバカをやってきたかを得意げに話すので自分は疲れてしまった。
想像力や言葉遊びの概念にあまり重きを置かない、即物的な空間がそこには現れていた。


自分は途中からどうでもよくなってしまってどうやって時間を潰すかということだけに意識を集中させることに決めた。
本当に「どうでもよく」なってしまったので、それまで場に溶け込めなくてザワザワしていた気持ちも以降波立つ事はなくなり、
すると連れの20何人かを冷静に観察することが出来るようになって、笑っていることを周囲に示すための笑いを笑っている人や、
グループの中心にいるわけでもないしほとんど喋ってもいないけど何となくグループの周縁を回っている人などを見つけた。


研修と言いながら内実は観光旅行なのだったが、岡山県は後楽園という、日本三大何とか、庭園だか景色だかの部門で三本の指に入る緑地にも行った。
南門から入ると、開けた緑地が広がり、冬の装いと言うには少し青々としすぎの芝生が一面に敷かれているのが見える。
ああいうのは茅葺屋根ていうんだっけ?とにかく古い、昔の建物が所々にある。割と大きな池に小振りの島が三つばかり浮かんでいる。
平らな緑地の中心にアクセントのつもりか山がこしらえられている。
そういう空間をいくつかの十字に区切るように歩道が走っている。
自分は100本のモミジが赤くなっている区画などを見て感動した(またその日が快晴だったので余計に映えて)。


自分がまず中に入って感じたのはあの平原みたいであるな、ということだった。
後楽園の風景からファイナルファンタジー10に出てくる「ナギ平原」を思い出したのである。
園内は面積がそう広いわけではないのだが、遮蔽物がないために見通しが良く、広々と感じられる。
それにプラスして緑の芝生の整った感じや長閑な天気が、ナギ平原の妄想を呼び寄せたと考えられる。
次に中心にある小高い山のふもとを流れる川、つってもせせらぎ程度、に目を奪われた。
川底に丸っこい石が敷き詰めてあるようなのだが、石と石の境目に苔がことごとく張り付いていて、
そいつらが深い緑色をたたえて宝石のような具合になっており、この色調から自分は押井守監督の映画「イノセンス」に出てきた何かを思い出した。


感動したとか目を奪われたと言っても、下敷きになっているのが自分の場合ゲームやアニメや小説であるというのを後楽園で実感した。
たとえば後楽園を造って毎日見下ろしていた殿様はもちろんだが、幼い頃からしょっちゅう園を訪れて育った人などは、
感覚の下敷きに後楽園が入ってくることになるわけで、別にゲームやアニメや小説を下に見るわけではないが、
やっぱり感覚の下敷き=知覚されない領域には伝統的な、普遍的な美意識に裏打ちされたサムシングが欲しいよなぁと、思ってしまう。


話が大幅に逸れてしまったのでタイトルに戻るが、この20数名の知らない人と行く修学旅行で、
自分は他人に対する興味・関心の幅が狭いということを痛感したし、
コミュニケーションというのは、相手に対する大きな興味・関心・好奇心から生じるものなんだということが分かった。