読書

ash20042005-01-21

インディヴィジュアル・プロジェクション」(阿部和重新潮文庫
町田康パンク侍、斬られて候」に続きid:mahoroba_kokoroさんの紹介で購入。
序盤では元スパイな主人公が渋谷でいざこざに巻きこまれていく。
徐々に明らかにされる過去に興味をそそられ、読書の集中力が衰えない。
中盤以降はその語られてきた過去や、主人公の前に現れる重要人物のほとんどが彼の妄想による産物であるかも知れないという急展開。
これには映画「ビューティフル・マインド」を思い出した。普通にストーリーが続いてるのかと思ったら錯乱してるの?みたいな。
で妄想が最高潮に達し、主人公のホームが崩壊。
最終的に主人公は「(重要人物)は全て実在する他人であって一安心だったぜ」と結論するのであった。
で、本文終わり、かと思ったら続きがあり、もう一回ここで急展開?が起きる。
突然「感想」なるタイトルの付いた小文が登場し、主人公のスパイ師匠らしきが語り出すのである。
そして、ここまでの文章が全てその師匠に向けて書かれたレポート、作文の類であったらしいことが示される。


これは最初に書いたようにスパイの話なのだが、
師匠は持論である人間美学の最終洗練形態=すごうでのスパイ、になるためには「多数の意識を同時に始動させ、うまく統御し得」ることが必要で、
その訓練としてレポート、作文の類を課し、
「登場人物たちの心理面にまで立ち入った描写を要求し、自分以外の誰かになりきってみることが肝要」だとするのである。
それを可能にすれば、「より完全な状態へと近づける」のだと言って。
主人公が自分と他の登場人物を混同し、錯乱したかのような中盤以降の話は、すべてスパイの訓練だったらしいのである。


しかし主人公はレポートのラストで、誰かになりきることをやめ、中学生との恋愛にいそしもうとしている。
これを師匠は「危険なことだ」と言う。中学生とのセックスは犯罪だとかそういうことでなく、意識を一つにし、
目の前のことだけを見て生きていこうとすることを(?)。


最後の一文。
「そろそろ君も、『みんなわたし』だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?」
これどういう意味なのかよく分からない。


ルパン三世の幻の話?というのを映画のパンフレットで読んだことがある。
銭形警部がいつものようにルパンを捕まえる。で、ここからが異様な展開なのだが、
警部は「お前の本当の顔はどれなんじゃい」と、変装名人であるルパンの大元の顔(モンキー顔)すら偽物であると宣言、
実際にベリベリと大元の顔を剥がしていくのである。
そのシーンは顔が見えないような構成にしてあったらしい(マンガ版である)が、何ともおどろおどろしいというか、
子供の頃から親しんだあのサル顔がホンモノではない、というのは、実物を読まずとも、薄ら寒い気持ちにさせられるし、
実際に何だか不安な気持ちを催したのを覚えている。


ルパン三世はスパイというか、窃盗犯だが、その技術や精神にはスパイと通じるものがあるだろう。
ルパンは「IP」の師匠の言う「みんなわたし」の境地に達しているということになる。


あるいは、人間は結局自意識を投じた世界しか知覚できないのだから、「みんなわたし」なのだよ、という当代流行の話なのか、って違う違う。


(画像は三菱・ランサーエボリューション9)