物事というのは単純化されるものだ

今、神奈川県のホームページでお勉強中。県民のニーズ調査を行っているそうだ。http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/kohokenmin/shumoni/needs/h17result.html#no3
この施策で何をしたいかといえば、県政に県民の意思を反映させたいということだろう。今度私たちが行う●●は、県民のアンケート調査に基づき〜〜という言葉を引っ張り出すために。発想はとてもいいと思う。良きにつけ悪しきにつけ、正統性を持たせることは重要だ。

そして今回は教育についてもアンケートを行っている。上の画像はページからの無断転載だが、学習指導においてA、B、どちらの教育方針を望むかが問われている。
ハッキリ言って、調べれば調べるほど神奈川県で働きたくなくなってくるのだが、例を挙げると、この調査においては、「暗記や反復学習により、多くの知識や技能を身につける」ことと、「自分で調べたり、意見を発表することで自ら考える力や表現する力を身につける」ことが対比的に扱われている。
もちろんこのアンケートは「どちらを重視するか」という聞き方をしているから、両者を対比的に扱ったって調査段階では問題ない。
しかしながら、これをどう解釈し、どう教育に反映させていくか、という段になったとき、「重視」だったものが絶対化されるのである。このとき行政の対応は振り子が右から左に、あるいは左から右に触れるような(神奈川の場合は左に触れっぱなしのようだが笑)、単純な動きにならざるを得ない。
詳しくは苅谷剛彦氏らの議論を参考にしてほしいが(俺も勉強中なので!笑)、昔からの「詰め込みVS考える力」の二項対立的な考え方は既に終わっているとみなすべきだ。
考える力ってどうやったら付くんですか、と聞かれてまともに答えられるアンケートの回答者はいるのか。学校で教える際にはどのような教材を使うべきでしょうか。そんな雲をつかむような教育を、一律に、勉強の出来る出来ない関係ナシにガキどもに施して、平等な教育結果が本当に得られるのか。


「自分で考える力」と「知識の暗記」という字面を見たとき、人は誰だって前者を良いものとし、重視するだろう。実態がどうか、手段をどうするかとは全く関係なしに。
果たして、神奈川県の教育行政は県民の意見を聞き入れ正統性を得たと結論付けたのだろうか。結論からは従来の、「保護者の公教育離れ、不信」を引き起こした方針を踏襲するものになるしかなさそうだが、どうなのだろうか。