読書

好き好き大好き超愛してる。」(舞城王太郎講談社
カップリングの「ドリルホール・イン・マイ・ブレイン」を昨夜読み終える。
凄い想像力だよねこういう世界をつくれちゃうというのは。何か投げやりな感じもたまらん。


昨日発売になった文藝春秋芥川賞の受賞作と選評が掲載されていると知ったので暇つぶしに立ち読みをした。
あまり詳細を覚えているわけではないし、舞城ネタの所だけ飛ばし読みしたので脳内補完だらけの誤読だらけになってしまっているかも知れないが勘弁。
石原慎太郎さんは「好き好き大好き」が生理的に駄目って感じで、タイトルからして終わってるよコレみたいなコメント。嫌いみたい。
そもそも今回の候補はどれも駄目だという言葉も。それらの良くないとこの集大成として好き好き大好きを見ているようだった。慎太郎さん。
池澤夏樹とかいう作家と山田詠美は舞城を推したらしいが、山田詠美の選評を読むとどうも強硬な反対にあった模様。


文学賞の選評を、俺はようやく最近ちょこちょこ見るようになったのだけど、そこには選評と選考の経過が載っているんだけど、
5人選考委員がいるとしたら、その中の1人が強く推して、それに反対意見がないとか、候補を2作に絞り込んでどっちかなぁ、
うーん、まぁどっちかというとこっちかなぁ、みたいな選び方が普通にされている。
委員個人の意見では「該当作なし」が結構あるけど一人二人が強く推してるのがあって、まぁいいかって感じで決まる事も多いようだ。
それでも決まった暁には「○○賞受賞!」つって帯に書かれることになるわけで、
そこにおいては、詳しくない人が見ればの話だが、選考委員の意思が統一されて決まっているように見える。
世間の「会議」のイメージで、民主的に多数決で決まったんだよこれは、みたいな見え方をする。
しかし意外なほど場は混沌としているように思えるし、どの作品が圧倒的に優れているという価値判断もされていない(出来ない?)。
選考委員は芥川賞などになるとやはり高名な小説家が務めている。
彼らの見方がおのおの全然違うというのは、基本的に「小説」というものの原像をなぞることよりも、個人であることや作家としてのスタンスを第一に選考しているからだろう。
世間が抱いている「小説ってこういうもんだよね」みたいなイメージ=原像からは自由になっているよなぁということです。当たり前じゃん彼らだってまた作家なのだから。


早い話が、委員の好き嫌いで決まっている所がかなりあるんじゃないかな、ということを考えた(笑)
もちろん最終的にそうなるのは当然と言えば当然だろうが。
舞城王太郎が受賞しなかったことに何か言いたい事があるわけではない。
確かに俺が舞城を手に取ったのは芥川賞候補になったのがきっかけだけれど、
それは「好き好き大好き超愛してる。」というタイトルに驚いて興味が湧いたから手に取ったのであって、
別に芥川賞じゃなくても、ABCお笑い新人グランプリ出場でも良かったわけだ。M-1でもだ。
ちなみに笑い飯が一番面白かったのは去年のM-1、それも準決勝で、今年の活躍はその後日談のようなものだ。
話がそれ過ぎだが俺は芥川賞だから手に取ったのではなくてちょっと面白そうだから手に取ったのだ。そして実際面白い作家だった。
それ以外の価値判断は不要。それでOK。それでFA。


(画像はロータスエリーゼ