何ごとに付け中途半端な、

神奈川は横浜から小田原箱根まであるが、どちらかというと東の方に居を構える俺はモンキー、何をするにも飽き性がたたって長続きしない。
時間を拘束されるのが嫌いで、習い事もボーイスカウトもとにかく休みたがった。親は嘆いたがお構いなしだった。
アルバイトをしなかったのだってその昔からの習性が大きいところを占めており、こんなに通うのかめんどくさー、というのがメインとしてあった。
もちろん時間を惜しむほどの趣味もないし、守る自己などまったくないのだが、
しかしそういう、時間を自分以外のことに使うのが躊躇われた、生理的に何か嫌だった、ということだ。


で、他人から君って面白い人だね、とおだてとも本音とも分からぬ言葉をもらって調子に乗りその生活態度を改めないで19、20まで来てしまったものだから、
ふと気付くと、周りの者は何かしらの趣味に埋没し、いかしたファッション、美容室帰りのような髪型をして他人とのシンクロ率を上げつつも各々独自の世界を形成していた。
自分には「共通の話題」というものが何もなくなっていた。
地元の、昔からの連れとは喋ることができた。昔話という取っ掛かりがあったからだ。
ところが、新しい、たとえば大学からの友人、ということになると、これは余ほど切迫した状況がない限り無理であった。
その状況とはいわゆるグループでやる制作の授業や何かそういうのだ。ムリクリくっ付けられる様なタイプの。
何か話しかけたり、かけられたりすることはあった。で、最初のキャッチボールは出来るのだ。
でも次が出てこない。


映画を観るのでも、小説を読むのでも、自分には感想らしい感想を言うことが出来ない。
もちろん面白かったとかつまんないとか、激しかったとか、笑ったとか、そういった類のことは言える。
だがどこそこが良かったとか、ここのシーンの何とかが良かったとかは覚えていないし、そもそもそれについて長く喋ること、は非常に困難である。
たとえば俺は、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだという話をして、感想を求められた時、「長くて読むのが疲れた」と答えてしまった。
読んだ時には作者は「愛」を信じているなとか、ラスコーリニコフの昂ぶり、ロシア人の風俗、などから色々感じることが確かにあった。
しかしそれを話としてまとめるのは時間がかかるし、一言で言うなんて不可能だという意識があって、長かった、疲れた、ということを言ってしまうのだ。
映画においても、俺が感想として言うのは全体に漂うトーン、たとえば北野武の映画なら青みがかった映像とどこか虚無的な雰囲気についてで、
それはどうしても抽象的にならざるを得ず、相手と気持ちをシンクロさせることは難しい。
もっとも、北野映画くらい有名なのであれば多少はシンクロするだろうが、それが一作限りのアクションものであったりした場合は、ほぼ不可能と言ってよい。
「小説というのは小説を読んでいるその時にしかない」、みたいなことを保坂和志さんが書いていて、
俺も同じようなことを考えていたのでうんうんと頷いたのだが、しかし、それでは他人とのシンクロ、という部分で残念な結果になりそうである。
もちろん今まではそれでいいんだ、と思っていた。しかしそういう訳にもいかぬというのは、自分を社会化していく必要が生じてきたからで、
そのはざ間でちょっと思い悩んだりもするのである。


「共通の話題」として育てていけそうなのは自分の場合、小説とかしかなくて、それも極めて狭い範囲でしかなくて、
いわゆる趣味の大御所である「邦楽」、「洋楽」、「映画」、「格闘技」、「マンガ」、「サッカー」、「スポーツ全般」などはそれなりに関心をもって観るのだけども、
とても「語る」という域には達せず、盛り上がる事は不可能に思えるので止して、今日も気まずい沈黙の中に身を置くのに耐えることになる。


そんな話題=抽斗という点では最低な俺だけれども、
では俺の数少ない魅力とは何なのか、少なくとも一人、二人の女を振り向かせたり、よくしてくれる旧友がよくしてくれる理由とは何なのか。
というと、やっぱりよく分からないのだけど、そこにもやはりシンクロはないのだろうな、と思う。
これは一面、悲しいことだけれども、人間が関係を持とうとする時、シンクロ以外にも何かがあると信じることが出来る、ということでもある。