長嶋ジャパン、サラダパン

人生の残り時間が長い人にも短い人にも、今日一日の二十四時間という時間は平等に与えられていて、
それで何をするかは各人の裁量に大概任されている。
誰にも発表することのないお笑いのネタを考えるもよし、誰も答えることがないクイズを考えるもよし、
鳥の言葉を日本語に訳す鳥日辞典のピョの段を執筆するもよし、なんて、全然一人で出来るやつばっかりじゃん。
人間は社会的動物でありますから、そんな、不毛かつ単独的な行為をしていると別の人間に叩き潰されますよ。
そう、攻撃するのは別の人間であって他ではない。攻撃と言ったって物理的直接的に傷付けるだけじゃなくて、
冷笑・嘲笑の類を浴びせるような、陰惨な気分にさすものもあるし、精神的に八方塞の状況に追い込んで自滅させるといった狡猾なものもある。


ま、そんなことはどうでもいいんだけど、ときに現代において最強の価値とは何だろうか。
金、というと確かに一面では正解だ。しかし容姿というのが、とりあえず「困窮の極み」ってことでもない限りは、最強ではないか、と思う。
俺は女の子の心情に詳しくないからもっぱら男から見た女の話になるけれども、たとえば職場で、
やる気がない(ように見える)とか、つまらなそうにしているとか、いう場合、容姿によって、受け取られ方が変わってくる。
一般的にブサイク、普通(愛嬌がない「普通」)の容姿の女性による上記の態度に対して男は、うわ真面目にやれよ働けよアホチン、と思うか言うかする。
しかし一方、愛嬌がある、可愛らしい顔をしている、美しい、容姿の女性の上記のような態度に対して男子は、
けだるそうなのがイイ、コケティッシュだ、えもいわれぬ魅力がある、などと勝手に解釈して盛り上がる傾向にある。


現代における最大の差別は(それを差別と呼ぶなら)ずばり容姿だ。
これは部落とか在日韓国朝鮮人とかハンセン病とか、そういう社会的に認知された記号による差別ではない。
もっと個人的なものだし、ゆえに永久に無くならないし、だから当人にとって本当に切実な問題となる。
こう言っては何だが、部落も在日もそれなりに利益を享受している側面があるし、し過ぎていると言っていい部分もある。
だが容姿には何もない。悪いからって、行政が手を貸してくれるわけでもなければNGOが整形費用を工面してくれることもない。
最大の差別は容姿だ、と言うことには、たとえば「ミスコンは差別か」という問いが含まれているかも知れない。
ミスコンは声高に差別と言うほどのことではない。コンテストなんだから、自分の容姿を肯定的に捉えて参加する者しかいないだろうし、
差別など発生しようがない。外野が騒ぐのはただ不愉快だから(これはルサンチマンに支えられている)で、
自分の感情を「差別」に直結させる感覚こそ疑われるべきだろう。


そういった「場」に出てくることもないし容姿をウリにすることもない、そういう人でも、
というかそういう人が受ける虐げこそが差別と呼ぶに値する。
そして容姿・体臭・仕草などの点でアウトな場合、大概、近くにいる誰かしらが嫌悪を覚えるのであって、
どんなに仕事が出来ようが何だろうが微妙に嫌われたりして、そいつの意思とは無関係にはぶられたりするようになる。
俺は人からバイト先の話を聞いたりする時、大抵そういう類の存在がいることを聞かされて、笑いながらも複雑な気持ちになる。


桐野夏生の「グロテスク」など読むと、ちょっと趣旨がずれているかもしれないが、
「容姿による不遇からの脱却(を図り続け失敗し続ける)」を痛々しいほど目にすることが出来て、
もう本当に、哀しいなんてもんじゃないくらい哀しく辛い話が迫ってくるのでオススメである。


あっオススメ図書コーナーになってる!けどいいや。