スピリタスを原液で飲み

ミスチルことMr.Children桜井和寿が長年散々世の中や人間について考えて歌詞を作り続けた結果、
最近になって結局よりよい生、世の中を創るために出来ることって「愛する」以外にねーじゃん、みたいなことを書いてしまったように、
まーこういう、世界からあらゆる酷いこと、痛ましいことをなくし、皆が笑って暮らせるようになるにはどうしたらいいの、
みたいな大きいことを誰しも考えるものだが、落ち着く所といえばそこら辺と相場が決まっていて、
特に個人の心や行動を焦点に考えていった場合、その結論はほぼ間違いなく愛だ。


たとえば日本の市井に暮らす俺がやれることなんて限られていることが丸分かりだが、
隣の人やバイト先の好きな女の子や親しみを持っている友人に対してしか好意を発揮する事は出来ない。
かつて一度でも接し、見知った人、普段から顔を合わせ一緒に笑ったりしている人に対して俺の心は最大に開かれているが、
「個人の心や行動」が届く範囲というのはテレビやラジオやインターネットじゃないんだから極めて地理的に狭いし、
身体に拘束されるし、身体の限界即ち個人で出来ることの限界。


テレビやラジオやインターネットで情報だけはどんどん入ってくるけれど、それに身体を伴わせることなんて出来やしない。
伴わせることが出来るのは例えばお笑いコンビ「カンニング」を「中野ケーブルテレビ」で見ていた中野区民とか、ギリギリそのレベルである。
たまに奇特な人がいて、地球の裏側の貧しい子供のために募金をしているということもあるが、
どれだけ実感を持ってやっているのか、また、自身の存立が危なくなったときにも続けることが出来るのか聞いてみたい。
思うのは、愛を注ぐ方も注がれる方も、相手と面と向かって注がなければ、注がれなければ、実感はないだろうし、
実感を起こさない・起こさせない愛なんて抽象的で自己満足だし、つまり愛で世界がひとつになる事はないわけだな。
だって広いもん、世界って。


どっかの誰かが周りのみんなとヨロシクやれてるからって、それが世界規模で可能かどうかは分からない。
俺は妄想だと言ってしまおう。
個人の愛(に代表される感情)による連帯によって世界から不安の種が一つ残らず根絶される事はないし、
それを成し遂げる可能性があるのは、たってまず無理だろうが、そうして愛だ何だと吐かす連中が一番嫌っている組織とか政治とか権力である。


「個人の行動や心」を焦点にと書いたが、別の焦点の当て方はいくらでも考えられ、
世の中には個人の行動や心を第一に考えないのが普通、という種族民族が案外いるらしく、
そういう人に愛を説いたってキリストは預言者の一人とか何とか言われてディスコミュニケーションに陥るに決まっている。
また、そういう人一人一人と個人的な付き合いをして仲良くなったとしても、それを全員とやるのは身体的限界があって無理で、
やっぱりアレだよ、ファジーが一番だよ、って話になる。