琵琶湖で拿捕

僕がタバコを吸い終わるのを待っていたように灰皿を自分の方に引き寄せた向井ソロモンは男性用顔拭きシートで丹念に顔を拭き、
それを丸めると、吸い殻の火が消えているのを確認してから慎重にコースターくらいのサイズの灰皿の壁際にちんまりと安置した。
火災を恐れてでもいるらしい彼の指先が震えていたのと、丸まった顔拭きシートがあまりにも「ちんまり」といった感じで納まったのがちょっとおかしくて、
僕は向井の狼狽する様を見たくなって「まだ吸うんだけど」と顔が綻ぶのをこらえ真面目な顔をつくって言うと、
本当に「あっ。えっどうしよう、これ入れちゃったから危ないよね、燃えるもん」とか早口で述べ始めたので、
「別に燃えないだろうよ」と指摘する語尾辺りから笑ってしまって「だろうよぅほっほ」みたいなことになってしまったのだけれど、
「顔拭きシートには灰が一杯付いているから最早取り出せないのだが」などと向井は笑っている僕に気付かずに一生懸命善後策を考えている。
見ると向井はそれをお題にネタをやれと言われた芸人のような顔をして灰皿を前に頭を捻っており、
目の前の僕には顔を決して向けてこず、視線は専ら灰皿とテーブルの端に置かれた紙ナプキンやデザートメニューの間を往復している。
火災の恐怖に怯えつつも目の前の友人に気の悪い思いをさせてはならないという気遣いのジレンマに囚われているというよりは、
火災への恐怖がまずあって、どうやったらこの局面を打開できるか自分の思考力を試しているみたいだった。
自分を平成の一休さんか何かだと思っているのだろう。もっと物事はシンプルにいかなきゃ駄目だよ向井君。
僕はウェイトレスを呼んで新しい灰皿を一つ持ってくるよう命じた。


「どうしてそんなに火災を怖がることがあるんだ」と聞くと向井は待ってましたとばかりに、
「この顔拭きシート、ただ水が染み込ませてあるわけじゃないんだぜ。きっと顔がさっぱりする成分としてアルコール分とか入ってるに決まっているさ。
だから火の付いたタバコをこいつに近づけると」
「勢いよく燃えるってわけか」「そういうこと」と、理系出身らしいことを言う。(続く)