カタストロフ

疎い俺でも聴いたことのある洋楽ばかりがかかっていた。
今は「Autumn Leaves」がカウンターの両端から斜め上の位置にそれぞれ据え付けられたスピーカーから流れている。
一人で来る時は大体カウンターの右端に座ることにしていて、それは入り口から近いのが右側だからで、
左端に行くのには何か理由をこしらえないと、わざわざスツールとソファ席の仕切り用植物の狭い隙間を抜ける時にどのツラ下げりゃいいんだかって
考えに囚われてしまうからで、なんでそんな細かいことを気にするのかといえば、
左端に行くことは即ち俺が先日来惹かれ、毎晩掛け布団をツイストするほど苦悶させられているケイちゃんの正面に座ることだからである。


で、今日も右端に座ってジンバック辛口を注文している。酒の飲めない友人から教えてもらったジンのジンジャー割り。
せっかくだからと一度バイトの楽太郎君に作ってもらい、ソフトドリンクでないホンモンのジンジャーエール(ちゃんと生姜の味がするやつだ)の、
むせるような強いジンジャーぶりが気に入って、どうも自分はビール好きであることからも推測されるようにアルコールだけでは満足できず、
それにシュワシュワ感、ビリビリ感、炭酸っぽさなどが加わったものを特に美味いと感じるみたいで、
それで楽太郎君には「いつもの」で通じるくらいによくジンバック、それも辛口のジンジャーエールを使用したものを頼んでいるのだが、
今日は楽太郎君が非番の日らしくいなくて、マスターの黒沢さんが腕を振るってくれた。
思えば黒沢さんがお店にいる時に来るのは初めてかもしれない。
ちょっと見ても年齢がよく分からなくて、それはオレンジの間接照明しかないこの店では誰だって「不詳」っぽくなる気がするけれど、
黒沢さんの不詳は俺にとっては別格で、普通の蛍光灯の下で見た時もやっぱり分からなかった。
30代か40代なのは間違いないのだが、30代と言われることと40代と言われることの間って随分差があるような気がして、
それは20代前半の俺が「30代?」と聞かれたらあまりのショックに話のネタにして笑いを取りでもしねぇと寝覚めが悪いと思うのと同じで、
間違ったらすごい失礼になるんじゃないかと慮って、そういう失礼をしちゃあいけない、と感じさせるサムシングを黒沢さんは持っていて、
話をする時にはいわゆるまともな受け答え、をなるべくするようにしている。


黒沢さんがシャカシャカとシェイカーを振り回している隙にケイちゃんの方を見る。
店内には俺の他にお客は一組だけで、そのカップルにも飲み物を提供済みだから暇してるのかな、と思ったら手元に視線を落として書き物をしていた。
顔を俯けた時に横髪がピョロッと垂れるのが可愛い、と思う。
顔を上げると今度は脇のレコード棚の方に身体を向けている。ここからは背中しか見えないので何をやっているのかは分からない。
以前ケイちゃんにこの店は忙しいの?という質問をかけた時、忙しくない時は忙しいフリをする、と答えたのを思い出したけど、
それが働いているフリなのか本当に何か作業をしているのかの判断は付かなかった。


どうも楽太郎君は面白がってなのかかなり濃い口のジンバックを俺に提供していたみたいで、
黒沢さん作のジンバックは楽太郎君のを半分以上薄めたような感じで、もしこれが正統な、本物のジンバックだとしても物足りなかった。
つまり楽太郎君のジンバックが俺にとってのジンバックということで、
自動車好きの俺としては「ジンバック タイプR」と名付けたい衝動を禁じえなかったので名付けた。RはRakutaroのRだ。
顔の右あたりで相変わらず音が鳴っていた。カーペンターズだった。
やさしいメロディが素敵だわと感じ入っていると、
「いつもありがとう憲三君」と黒沢さんがよく分からないタイミングで礼の言葉を俺にかけてきた。
「どうしたんですか?」と笑いながら真意を尋ねると、
黒沢さんはいたって通常の調子で「すごくよく来てくれてるみたいじゃない」、と言ったかと思うとニコッと笑い返し、
そのニコッ、は確かにニコッだったし悪意などもちろんまったくなかったのだけれど、しかし俺にはニヤッ、に感じられた。
「もうお得意さんだよ」「そうですかねえ、まぁ雰囲気がいいですから、よく来ちゃう、みたいな」
と懸命に何気ないやりとりを行おうとしたが、俺の脳内にはある考えが確信とともにせり上がってきていて、
言葉は吐き出せたが表情の緊張は隠せなかったかもしれなかった。
ケイちゃんはこちらを見ているのだろうか。もちろん目を逸らして確認することなど出来ない。
黒沢さんはニコニコ、俺にとってはニヤニヤ、しながら俺の方を見て、照れたような表情を浮かべるとカウンターの中に視線を落とし会話を中断した。
何か言いたいけどどう言ったらいいものか、という感じだった。


黒沢さんも知っているのか。いや疑問形でお茶を濁すのはやめよう。黒沢さんも知っているんだ。
ああ何ということだ、一部の女性店員が気付いているのは分かっていたが、まさか御大にまで情報が行っているなんて。
心の中で5回くらい「あちゃー」と言って、1回小さく「あちゃー」と呟きもした。
会計お願いしますの声が洋楽にかき消されずにうまく伝わったのがせめてもの。救い。


自分がジャンバラヤ動物園に入って、この飲食店に出入りするようになって一ヶ月。
先輩を交えてケイちゃんと飲んだこともあった。時々二人きりにもされた。先輩が交友関係を用いてケイちゃん情報を仕入れてくれたこともあった。
交友関係とはまさにこの飲食店で働く別の女性だったのだが、その女性店員が勘を働かせ最近先輩と連れ立って現れる新人の男、って俺だけど、
に行き着くのは造作もないことというか、状況証拠は揃っているわけで、その女性発の情報は飲食店関係者にあまねく知れ渡り、
ついにマスターたる黒沢さんの元にまで届いてしまったようなのだった。
次から行く度に俺はそういう目で見られるのか、と思うと絶望的な気持ちになり(というのも俺はケイちゃん関係なしにこの店が好きになってもいたからだ)、
あ、じゃあ楽太郎君も知ってたんかい、と気付いてさらに脱力して「うはぁ」と呻いた。


もっと問題なのは、ケイちゃん自身もおそらく知っているのだろうということで、
そりゃあ黒沢さんより女性店員らと仲はいいんだろうし個人的な話もするだろうから、9割方知ってる。
飲食店の従業員、さらには最近俺が飲食店にしょっちゅう出入りしているとの情報が俺の直属の上司らにも回っているらしいので、
ある意味ジャンバラヤ動物園の全従業員が環視の中、俺はケイちゃんにフラれることになってしまったのである。
カタストロフは、近い。