人生の行方

終わりがあるから人は人生に勝ちとか負けとかいう概念を導入して心を貧しくしている。
「終わり」とは何か?それは死である!
つまり死を取り除いてやれば人々は終わる事のない生を感じ、
「今俺はこんな社会の底辺みたいなアパートで女にもモテず入りの悪いラジオを
一生懸命聞いたりして燻ぶっているが見てろよクソ野郎ども!」
みたいな私怨で心根を歪ませることもなくなる。
いつからでも人生のやり直しがきくのだから。鷹揚に構えていればよい。
生ぬるい人間関係の中で生ぬるい会話をし身の丈に合わない夢を語り、好きなアニメを見て小説を読んで文化系気取って、
好きな女の子に告白するとかしないとか甘酸っぱいことやってニート満喫したとしても、まだまだ人生は長いぞ!
人生を山に喩えて「二十歳だからまだ三合目」なんて言う必要はない。だって頂上もないし登山口もないのだ。


是非ともサイエンティストの皆さんにはこの世から死を除去する方法を一刻も早く編み出していただきたいものだ。
そうすればこの世は誰も傷付かないし傷付いてもいくらでも回復が出来る。
勝ち組とか負け組とか言ってしょっぱいどんぐりの背比べをする必要もない。


終わりのない人生は山ではなく砂漠に喩えるべきだ。右も左も分からない、あれ、僕はどっちから来たんだっけ?
うずくまって助けを待つか、砂漠に潜む亡霊の見せる幻の世界の住人になってしまうか?
人生は時間という一直線の背骨によって人生足りえている。
終点に死があり、それを知っているからこそ人の無意識は「生きろ、何かをなせ」と命じてくるのだ。


終わり、それは人生のあらゆる場面に必要とされるべきだ。楽しいパーティーは終わりがあるから楽しい。
青春の一ページは一ページだから楽しいし苦いし、その人にとって得がたいものとなるのだ。
もし小松左京的世界が顕現し(小松左京的世界って何?エスエフってことか)、不老不死が実現したとして、
本当に人は自分の生をコントロールできるのだろうか?