不特定多数無限大への信頼

梅田望夫氏の「ウェブ進化論」がすごい売れ行きなんだそうだ。
特別区の試験を受けに行く電車の中で読んでいたら、近くの若人も読んでいて、二子玉川改札内の本屋でもランクイン書籍として並んでいて、もうそこらじゅうでウェブ進化論が広まっていってる。
内容もとても優れていると思う。Google=グーグルの凄さについての部分は読んでいてぞくぞくした。俺自身グーグルを使うようになって3年くらい経つが、「キャッシュを保存」してくれる便利な検索エンジンという程度の認識しかなく、
最近ちょっと読んだ「クーリエ・ジャポン」のグーグルに関する記事で「どうやら大企業らしい」ということを知ったくらいだった。
しかしあの無味乾燥としたトップページの向こうで、まさに革命的な進化が今もなお続いているのである。
あんなテキストボックス一行のところから。


グーグル内部の人の話も頻繁に登場する。
そこから窺えるのは(というかズバリ書いてあるが)、グーグルを動かしているのは超の付く秀才の集団であるということだ。一般の社員からトップに至るまで、技術畑の超エリートがよってたかってグーグルという巨大なシステムを開発している。
皆が秀才だから、情報は徹底的に共有され、何の不都合も生じず、むしろ共有することで解決のスピードが飛躍的に向上する。
まさに、
「我々にチームプレイなどという都合のいい言い訳は存在しない。あるのはスタンドプレイの結果生まれるチームプレイだけだ」
的な世界がそこには広がっているのだろうと、想像した。


グーグルは徹底して民主的であろうとする。
それは、あらゆる物の権威をゼロにしてしまう。どんな偉いさんのコメントでも、アホのブログでも、一旦は同じに扱う。
思想の自由市場論の考えを、あらゆる分野において適用しようとするのである。
その玉石混交の混沌の中から、グーグルは独自のテクノロジーでもって優れた(支持を得た)意見を自動抽出してみせる。何千、何万、何億もの意見がネットの海に垂れ流され、それを全て拾い集めて大きな流れを創っていく。その流れは「大体正しい」。


チープ革命によってツールの充実、教育の機会均等が起こるということも書いてある。
ほぼあらゆる種類の情報がネットに流れるようになった今、道具と知識だけはすぐ用意できるというわけだ。
日本中、いや世界中で子供たちが好奇心のおもむくままに情報を摂取し、他者と繋がっていくという時代。まったく新しい人類が登場するようになるだろう。人は宇宙に出て目覚めるのではなく、ネットの海に漕ぎ出して目覚める。新しいニュータイプ観の登場だ。


というのがウェブ進化論を読んで考えたことのまとめなのであるが、
俺は元々保守的な考えの持ち主だから(もう猿みたいに反射的に思考してしまうので直しようがない)、こんな革命的な内容の書物を丸呑みにして食中毒を起こさないわけがなく、
本に書いてあることの一部に「うーん、そうかなー?」と思わされる部分があったことも付け加えておく。
「面白い人は100人に一人はいる」はまだ許せるとしても、「総表現社会は衆愚をもたらさない」というのは、ちょっと楽観的な印象を受けた。
「面白い人」というとすぐお笑い芸人のことを考えてしまう俺としては、「100人に一人の面白い人」、これを「クラスに一人はいる面白い人」と言い換えてもいいが、あと、面白いにも色々な性質の面白いがあるから一概には言えないものの、大抵の人はオモシロ表現で飯を食っていけるほど面白くなくできていると思う。
ここまで考えてきて、町田康の言う「遊ぶということの苦しさ」を思った。関係ないか。


総表現社会なんて、ロクなもんじゃないだろう。
なんて、「ウェブ進化論に感動した」という発言と矛盾すること夥しいが、正直に言うと瞬間的にそう思ってしまう。それは一部のエリートや、あるいは人によって、幸運にも手先が器用だとかヒラメキが凄いとかコミュニケーション強者だとか、そういった「上澄み」にいる人はいいだろう。
グーグルの中の人や、あるいは梅田望夫氏自身もそうだが、非の打ち所のない頭脳強者、情報強者である。
しかし上澄みでない部分の人が大半である世の中、俺も含めて、ブログとか2ちゃんねるとかあめざーとかやってる人の大半は、糞をネット上に公開して喜んでいるし、美味しい「ネタ」を見つけると量産型エヴァンゲリオンのように群がってぐちゃぐちゃに食い散らかす(最近「Airまごころを、君に」観ました)。
ウィニーをはじめとするファイル交換ソフトを使用している人は、トラフィックに重大な負荷を与えていることなど考えもしない。
「水は低きに流れ、人の心もまた、低きに流れる。」
なんと示唆的な言葉であろう。


まさに「ネットというインフラを食いつぶす動機なき行為」がそこいら中で行われている。
そして、最も問題であろうと思われるのが、ネットによる自身の全能感の肥大化である。
マクルーハンという人はテレビによって人の感覚が地球の裏まで届くようになったという意味のことを言ったらしい。
それの21世紀版が、このネットにおける全能感の問題である。
テレビが拡張したのは視覚、聴覚であった。だから映る対象にこちらから働きかける事は出来ない。
それがネットになれば、話はさらに進展する。
たとえば「弱いものいじめや人に罵声を浴びせる行為にコストがかからない」ということの恐ろしさは計り知れない。
そのコストフリーさが人心に及ぼす影響を考えると、ちょっと憂鬱にすらなる。
ネット右翼の酷いのなんかを見ているとそう思う。
反動はその反動を生み、今まで先鋭化しなかった対立が激烈に立ち上がる。


衆愚になるのか、糞が化学変化を起こしてオリハルコンになるのかは判断できない。だが、誰もが声を上げ他者に表現することが出来るシステムというのは、PCやネットの他の特性と合わさった時、人を低きに流れさせるものばかりを生み出すように思えてならない。
また、糞の山の中から宝石を発見する処理のプロセスに人為が介在しないとも限らないのである。


ここまで書いてきて思った事は、「マイナス思考の吐露に終わってしまいましたね(笑)」


参考文:
『しかし、過去からの文脈を無視(というより知らないまま過ごしている)し、裏打ちのないセンスを駆使し、コピーよりもお手軽にクリエイトできるようになった時代の風潮は、
元来プロの世界においてはオートマチックに存在していた淘汰のシステムをも破壊してしまう危険性を伴っている気がしてならないのです。
まったく新しい、どこにもないメロディーがもはやただの雑音であるように。
(中略)
でもこれは、他者によってメディアに載ることがプロであった時代の終焉を伝えているのか?もはやこれは、プロは他者から金をもらって商品化してもらう、という前提の消失です。
(中略)
昨今の風潮として、作り手が存在していることを知らず、作品を主観のみで語る行為のおろかさと大胆さを感じます。だが、そこに新たな表現方法が潜んでいるのかもしれない、という恐怖は、ここまで人生を消費して来た先達のアドバンテージの量によって軽減されたり増幅されたりするのでしょうか。』
ユリイカ2005年10月号「特集・攻殻機動隊S.A.C.並列化する世界の中で」
より神山健治のコメント)