飲み会におもむいて思うこと

大勢で酒を飲むという経験が絶対的に不足しておったようで
(どうやら皆「飲み」が身体の一部のようになっているようである)、
最近ゼミで食事会など催されることがあるのだけど、
そういう場での立ち居振る舞いに自分の新しい一面を見る思いだ。
これは外部刺激による反応から自分の新しい面を確定するということで、
要するに表出しない自己には価値を認めないという立場に繋がりかねないような気もするが、
この辺はハッタリなので気にしないでほしい。ペルソナは仮面ではなく自分自身のことであります。パーソナル。
いや仮面をかぶっても自己は自己という意味も。


そんな事はどうでもいいので叙述を本筋に戻すが、
自分は基本的に生ビール中ジョッキしか頼まないので(XYZは奢りである)
極端な量を飲まない限り酔う事はないと思っていた。
しかし本日、生ビール中ジョッキ一杯めの半ばで早くも自分がいい気持ちになっていることに気付いたのです。
予想以上に早く酔いが回ってきたことも確かに驚きだったのだけど、
もっと驚いたのは、いつも健全である自分の思考(諸説あります)がどんどん邪まな、猥雑なものに勝手に歪曲され、
さらには暴力的に強い衝動が、強い割には神社にある手水用の泉の水のごとくに静かにか細くチョボチョボと湧いてきたのです。
これから先はもう文字にする事は出来ないんだけれども(笑)、これは私の記録ということで書いておくということで。


私には確かに女性を交えた食事会の類の経験がほとんどありませんでした。
同性の友人と飲んだ事はまぁそれなりにあるんだけども、
同年代の、別に何でもない関係の女性と酒の席を共にするという経験が、
自分をある種の暴力的というか、刹那的というか、そういった類の歪んだ思考に捕らえてしまうとはおもわなんだ。

もちろん通常の自意識も生きていて、
「俺は何を考えているんだ」とも絶えず考えているんだけども、
しかし、まるで脳にもう一つの回路が出来たみたいに刹那的な思考がダダ漏れてきて、私の自由を拘束するのです。
非常に悪い意味で「身を焦がすような思い」に駆られつつも、席が解散になるまで水は止まってくれませんでした。燃える水。


「表出しない自己は自己として認めない」なんて嘘です。私は表出しない部分で生きているようなものです。
表出させてしまったら、私はこの世界から放逐されてしまうことをよく知って…(以下略)